しおつぶあまみ+1

Twitterよりディープなおしゃべり

キュレーションの技術

ご存じの通り、戦後、特に1960年代において、現代音楽、特に商業音楽は飛躍的な発展を遂げた。ビートルズストーンズザ・フーのようなロックバンドの台頭、モータウンサウンドの全盛、ヴェルヴェッツのようなアンダーグラウンドミュージックの下地の完成……。しかし、日本で未だに90年代の音楽が長く愛されむしろ今の音楽以上に聴き継がれているように、2000年代以後、なかなか新しい音楽というのは難しくなってきた。もう出尽くしたかのように思われ、まるで音楽という文化が死んだかのように、嘲笑の対象とさえされている。

 

そんな中、ひとつのムーヴメントに音楽メディアは期待を寄せようとしていた。ニューウェーブリバイバルである。その中心的存在とされたアークティック・モンキーズは、それまでのロックミュージックやその他のジャンルの音楽をすべて咀嚼した上で、ひとつの作品にまとめ上げ、名盤"Whatever People Say I Am, That's What I'm Not"を世に送り出した。商業的にも成功したこのアルバムは、一部の評論家から「現代のオリジナリティ」だと評された。

 

現代のオリジナリティ……、これをどう評価するかは微妙なところである。もはや新たなものは生まれないという諦めか、それとも、こんな時代だからこそ、それまでにできなかったものが生まれる可能性を示唆しているのか?だが、出尽くしたと思えるほど様々なジャンルのものが存在し、それらが膨大なデータベースとして蓄積されているなら、確かに、それをまとめあげてひとつの作品として完成させたり、その中を歩むためのガイドを生み出したりすることは、現代ならではの意味がある大きな仕事ではないだろうか?

 

ここで音楽から離れるが、注目してみたいのが、キュレーションという言葉である。ものすごくぶっちゃければNAVERまとめやTogetterのようなサイトでなされているようなことを示す単語だ。用は、まとめなるものを作ることである。

 

まとめは、どのようなジャンルで、どのようなデータを取捨選択し、どのように完成させるか、と、案外、クリエイティビティにあふれる活動である。優れた手引き、優れた抽出を作り上げることはその人の能力や個性なしにはあり得ず、ひとつの作品と呼ぶに十分値する。

 

より広く考えるならば、現代において何かを作り上げようとするならば、長い歴史の中で作られてきた様々なものを知り、自分なりに咀嚼し、それらをまとめあげた上で自分なりの思想や指針などを組み上げなければオリジナリティを生み出すには至れず、そういう意味において、キュレーションの技術は現代人においてある程度は必須のスキルであるようにも思える。もちろん、何もないところから優れたアイデアを生み出す天才もいるだろうが、そのような人間はめったにいないし、天才とて、まったく価値のないものを価値のあるものに変える人間もいれば、それまでに無価値だと思えたものに新たな価値を与えるタイプの人間もいるわけだから、やはり、知識やそれをまとめ上げる力は重要であることに変わりない。

 

ところで、キュレーションにおいて、人は、著者というよりも編集者という立場をとるだろう。あくまで尊敬と畏怖の対象としての何かがあり、それを自分なりにまとめ上げる仕事である。著者だと出しゃばっても、淡々と箇条書きにするだけでも、面白いものや他のアイデアにつながるものは生まれない。編集者はオリジナリティをもった芸術家であると同時に、芸術を評価し世に送り出すパトロンでもある。この矛盾を統一し完成させることは大変だが大きな仕事だろう。

インクは人間の血でできている

ブログを書こうと思ったが、書きたいことややりたいことはあっても、漠然としているし、いざやろうとすると準備が足りなかったり、根気が持たなかったりして、なかなか形になるものができないし、形にするだけの能力や気力がない。だが、何が一番、欠けているかを一言で表すならば、それは「覚悟」の2文字に要約されうるだろう。

 

オープンな場所で、誰かが見る可能性のある状態で表現をすることは、自分以外が目にするのことのない日記や読む人が限られている書簡を書くこととはだいぶ違うものがあるだろう。まず、リスクが違う。そして、読む人がどう受け取るかも問題で、私はまだまだ未熟者であるが、子供と言える年齢でもないので、読む人が間違った知識を身につけたり、偏った思想へ傾倒しないよう、注意しなければならない。

 

こう思うだけならば何も書かずに黙っていればいい話なのだが、それでも衝動的に何かやりたいという浅はかで向こう見ずな気持ちがこの文章を書き上げている。この時点で、覚悟という言葉と自分がとても遠くかけ離れていることは容易に理解できる。

 

ところで、覚悟とは何だろうか?これは辞書的な意味で済ませておくこともできなくはないが、持ち出した以上、あいまいなままにせず、自分の言葉で定義しておく必要があるだろう。

 

まず、こういった言葉に犠牲はつきものであることは確かだろう。何もリスクを背負わず、傍観者や無関心のままでいるならば、覚悟をするシチュエーションに直面することもあるまい。

 

しかし、文章を書く上で必要な覚悟とは何か?炎上する覚悟か?誰にも見られない覚悟か?確かに炎上やノーコメントは辛いが、それ以上に、自分自身にけじめをつけること、そして、社会の中にありながらも埋没することなく自立して活動する自分を見失わないこと、これらをはっきりと自分にも読者にも示すことが、まずは求められる覚悟ではないかと思う。なぜなら、コピペやテンプレートでしかないなら、その人の書いたものである必然性などないからである。

 

そして、何かを書くからには、批判や時代と対決する覚悟も必要だろう。戦わない文章、すなわち完全に普遍的で誰からしても自明で批判を挟む余地がないような文章は、おそらく存在しない。そうである以上、文章を生み出すのは著者の頭や心といった生易しいものではなく、自分の命を削り出してものを書いているのであり、インクは著者の血そのものである。

 

せめて、ネット上のデブリや検索妨害にならないようなブログでありたいと思う。